最新説、ホトトギスを殺してしまえの戦略的織田信長は江戸時代以降に描かれた創作物のイメージだった!

織田信長

2019年4月3日(水)のNHK”歴史ヒストリア”は「世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実」ということで、新たな時代を切り開いた戦国の革命児の織田信長のイメージが近年、覆されはじめているということ。

歴史上一番好きな人物として上位人気である織田信長の街頭でのイメージは「強いし、かっこいい」「思い切った行動をしているけど戦略的」「革命児」「大変な時代を切り開いた」「魅力的、男らしい」でしたが、なぜ、そういうイメージに?

真田丸の織田信長

出典:NHK

今までのイメージが覆されはじめてるのはどういう理由で?

今年放送開始から10年の歴史ヒストリアでも、全国統一の野望を抱く征服者として何度も繰り返し描いてきましたが、今回の放送は最新研究が語る、文献に沿ったまじめな織田信長を紹介してくれてます。
<Sponserd Link>



織田信長は新イメージでダウンする?

全国統一を目指した?

信長は関係する資料が比較的少なく、手紙が1500点ほどで、秀吉8000点、家康4000点の半分以下なので、信長のイメージの多くは江戸時代以降に描かれた創作物によるもので、信長の研究にも影響してきて今のイメージがあるのです。

功名が辻の織田信長

出典:NHK

しかし、5年ほど前から直接関係する資料から信長像を見直す動きで新しい像が。

“天下布武”とは織田信長が朱印に用いた印章の印文で、天下に武を布く(しく)とはこれまで武力による全国統一を意味するとされてきましたが、実はこの武とは戦いを止めるということで、ルイス・フロイス書ではそのころの天下とは五畿内なので、全国統一ということの野望を信長が持っていたとは言えないという説が有力になってきています。

名古屋市熱田神宮で朝廷にあてた書状が残されてます。朝廷、公家に非常に敬意を払っている内容でした。

そこに武力で天下を統一するというのは矛盾していると思わざるを得ません。

大正時代の歴史書”近世日本国民氏”(徳富蘇峰)には信長が足利義昭の自由を奪い将軍として担ぎ上げたとしてますが、直接関係する資料では、そういったことは描かれてないのです。

足利義昭は信長以外の多くの大名に協力を求める手紙を出していますが、その要請に本気の覚悟で応えた形跡があるのは信長だけなのです。

足利義昭に本気で協力したのは信長

出典:NHK

織田信長の天下布武は将軍が京都にいられるように支えるという決意と考えられます。

将軍の天下に武を布くでは。

天下布武ともう一つ信長の資料に多く出てくるスローガンが天下静謐。

室町幕府の正当な将軍が、天下、京都周辺を昔のように穏やかに治めているということが信長の理想だったと考えられます。

3年後、岐阜から京に上り、三好氏を追い払い、義昭が15代将軍として朝廷より任命されることとなり、上洛主体は義昭として、信長は付き添って上洛しました。

信長は、義昭に父親のような信頼できる方、京都に居てくれないかと頼まれますが、天下布武となったこともあり、岐阜に戻って自分の領地を守りたいと申し出します。

2ヶ月後、三好氏が京に攻めてきた時に、一昼夜で京に戻り、義昭を守ります。
そして、この出来事で、後の二条城(徳川家建立)とそん色ない大きさの城を義昭のために造り献上したとのことです。

全国統一を目指す行為とは矛盾することです。

野望を抱いた征服者だったのか?

信長は義昭の意を受け、敵対する大名たち(武田信玄と上杉謙信、毛利元就と大友宗麟など)を和睦させるために書状を出しました。

利家とまつの織田信長

出典:NHK

和睦の仲介をすることが将軍の政治的な力を回復することになり、天下静謐につながる考えからです。

主体は義昭で、将軍の権威に従わない勢力に対し過激な姿勢を示したのは義昭本人だったのです。

1570年、信長は義昭の命で武藤氏を討伐に。武藤氏の裏に朝倉義景がおり、織田と朝倉の全面対決になりました。
さらに、朝倉義景と信長が同盟を組んでいたはずの浅井長政が裏切りがあり生涯最大のピンチでした(助かります)。義昭の命に従って起きたのです。

その3か月後、三好氏が本願寺、延暦寺、浅井、朝倉を自らの陣営に引き入れて、また京に攻め入ろうとします。

三好氏の味方

出典:NHLK

義昭は織田軍中心に全国に征伐を命じます。

浅井と朝倉は琵琶湖のほとりまで進出して織田軍と戦いますが、劣勢になり、比叡山延暦寺に逃げ込みます。そこで、信長は粘り強く延暦寺と交渉しましたが、一切返答がありませんでした。

1年ほど経った頃、天下静謐のために比叡山を焼き討ちします。

このことによって信長は世の中から残忍な征服者のイメージを纏うことになったのです。

義昭のために生涯消えない汚名を負うことになったのです。

さらに、悪いことが。義昭が寺社や公家衆の所領をかすめ取ったということが。信長にとって許しがたいことでした。

信長は21か条に及ぶ義昭の行動規範を定めました。

すると、義昭は信長を疎ましく思うようになり、各地の大名も信長と敵対するようになっていき、義昭はその大名と組んで信長を討とうと兵をあげました。

義昭を京追放とします。(室町幕府滅亡)

信長は天下静謐の拠りどころがなくなりました。

信長が頼みにしたのは朝廷でした。信長は当時経済的に苦しかった朝廷のために奔走したのです。信長は以降朝廷という権威を拠りどころに天下静謐を目指すこととなります。

<Sponserd Link>



最後に

信長はひたすらに天下静謐を目指した結果、京都(天下)周辺の30近い国を治めることになり、戦国の覇者となったのです。

ところで、信長のイメージは延暦寺の焼き討ちがきっかけで秀吉以降、江戸時代の間、残忍なイメージが濃くなっていきました。しかし、天皇を中心で政治を行う明治政府が、朝廷のために尽くしてくれた信長を英雄扱いとしたのです。(わたしの好きな楠木正成も同じでしょうね)

天地人の織田信長

出典:NHK

しかし、四国征伐だけは天下静謐のために矛盾しかねないと新説の研究者が言います。で、四国の長曾我部元親との間に入ってたのは明智光秀(詳しくは別記事に記載してます)です。もしかして明智光秀は信長の天下静謐と同じ考えを持っていて…、そうじゃない信長に…

そして本能寺の変へと、考えたのはわたしだけでしょうか?

おこがましいですが、わかるような気がします。自分のためにやってないことで、客観的に判断ができ、何でも柔軟に取り入れることができたりして結果がついてくるのですよね。

天下静謐を拠りどころにしていってた時の信長が強くて、革命児と言われたのは全国統一を目指さなかったからかもしれませんね。

<Sponserd Link>


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK