NHK大河ドラマ「麒麟がくる」主人公明智光秀は足利義昭や織田信長に仕える前は外科・産婦人科の医師だった!

信長と光秀

出典20年1月9日のNHKのNEWS7で「今年のNHKの大河ドラマ”麒麟がくる”の主人公明智光秀が織田信長に仕える前は医者だったことをうかがわせる古文書が熊本県立美術館で公開されている」というニュースがありました。

その古文書は「針薬方」といい、熊本藩細川氏の家臣で医者米田貞能の子孫の自宅で6年前に発見された医学書で、明智光秀が若き日に語った医学知識を人づてに聞いた米田がまとめたものということが調査でわかったということ。

光秀が田中城で医術を伝授

出典:NHK

 

そのニュースの前日に、NHK「歴史ヒストリア」”あらためて知りたい 明智光秀”でも「針薬方」から明智光秀が医者だったことから足利義昭に召し抱えられたという内容や、産婦人科の医者も兼ねていたというおもしろい話が。

この「歴史ヒストリア」で医者だったころから足利義昭、織田信長と仕え、本能寺の変に至るころまでの明智光秀が紹介されていましたので、まとめたいと思います。
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最新の明智光秀像を「歴史ヒストリア」が

明智光秀、職業 武士 兼 医師のころ

光秀の動向が歴史上わかっているのは年を重ねてきてからで、出生した年もはっきりしてません。1528年に出生したというのが最有力な説です。

NEWS7で紹介された「針薬方」には、三好三人衆から足利義昭を守るために戦が繰り広げられていた頃(有力説で光秀39歳)に、滋賀県の琵琶湖の北西部に位置していた田中城に光秀がしてケガを負った兵の治療にあたっており、医術を伝えていたという内容が記されております。

さらに、福井県にある称念寺に近年成立した「遊行三十一祖京畿御修行記」に光秀が越前の大名朝倉義景を頼って称念寺門前に十年住んでいたという内容が残っており、光秀が医者だった裏付けもあみつかりました。

光秀が門の前で寺子屋を開いていたという言い伝えがお寺内でもあり、

遊行三十一祖京畿御修行記

出典:NHK

田中城籠城前後、30代のころ越前に在住していたということになります。

朝倉氏の城下町の町屋跡で薬さじや薬研など医術の道具や書物が数多くみつかっており、一乗谷の技術が進んでいたことがうかがえており、

針薬方に朝倉家との関わりの記述が

出典:NHK

「針薬方」にセヰソ散は越前朝倉家の薬という記述があります。

「針薬方」に産が多く

出典:NHK

光秀は朝倉家から医師として信頼されてたとうかがえます。

また、森ノ宮医療大学(日本医学史)教授の長野仁さんは光秀は産婦人科医として女性たちを診察していたと考えてます。

その理由は「針薬方」に産婦人科の知識がいくつもかかれていたからです。
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明智光秀、足利義昭、織田信長に仕えたころ

足利義昭の側近に

実は、田中城で光秀が医術を口伝授していたのは足利義昭の側近でした。

明智光秀年表

出典:NHK

その側近から光秀のことが義昭に伝わり、1568年11月、足利義昭に仕えることになります。

翌年の1569年、三好三人衆が京都御所の義昭を襲撃した際、味方が駆け付けるまで、光秀が2日間守り切ったことで、評価され義昭の側近の一人に抜擢されることになります。

織田家 第一の家臣に

1571年の延暦寺焼き討ちに対し以前の「ヒストリア」では光秀は消極的だったとされていましたが、直前に光秀が出した手紙には延暦寺に味方する者はなで斬り(皆殺し)にするとなってたのです。

信長の根切志向に親和する志向を持っていたと考えられます。

焼き討ちの後、光秀は信長から義昭からもらった領地の数十倍にあたる近江滋賀郡を与えられました。

このころから光秀は手段を選ばず、家臣を実力で評価する信長を主君と仰ぐようになります。

1573年、将軍義昭が信長に対して兵を挙兵。光秀は義昭と決別し、信長に仕えることに。

この後、光秀は信長に熱く信頼されるようになります。

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本能寺の変に至るまで

光秀が信長と長曾我部元親との間を取り持ち、同盟にまで漕ぎつくことができ、四国全土は長曾我部が領地を治めていいということになりました。

ところが、本能寺の変の1年前、突然信長は四国阿波の国の武将三好康永と接近。康永に領地を返すように元親に要求しました。

間を取り持った光秀は非常に困ってしまいます。そこに、追い打ちをかけるように、信長との調整を潤滑にしてくれていた妹の御ツマキが病に伏し、亡くなりました。

その後も光秀は元親を説得しようとしますが、難しく、事は進みませんでした。

さらに、信長が信長の一族や直臣衆を中心に厚遇するような傾向を見せはじめたのです。

具体的には、光秀たちが苦労して征伐して統治した領地を自分の子どもたちに与えようとします。

光秀は信長より「丹波近江を召し上げ、出雲と岩見を切り崩し次第与える」と。

同時に側近衆たちが威張りだします。

家臣を家柄でなく実力で評価してきた信長の変身が!

さらに、信長、1582年5月には長曾我部元親を攻める決定をします。

一方、光成は四国攻めから外され、毛利攻め中の羽柴秀吉の救援を命じられます。この命は秀吉の下につけということ。

光秀は状況から、自分は信長にとって用済みということだと考えたのかもしれません。

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最後に

1582年6月2日、本能寺の変を起こし、信長を殺害することには成功します。

この本能寺の変、このころ光秀は精神的に不安定な状態だったということが2019年1月9日の「偉人たちの健康診断」”明智光秀 本能寺の変“敵は腸にあり!””で放送されていましたので、後日記事にしたいと思います。

本能寺の変の11日後、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀は落ち武者狩りにあって、命を落とすことになります。

その後、数百年もの間、逆賊というレッテルを貼られ続けた明智光秀なのに、

今年2020年にNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として放送されます。

近年までの勝者が残した記録からできていた勝者が正しいという歴史が覆がえされてきている時代だからこそ、NHKは勝負にしにきたようにわたしは感じています。

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CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK