百舌鳥・古市古墳群は特別に大きく、全国に数千ある前方後円墳が同じ設計、の理由がわかる!

仁徳天皇陵

2019年6月30日(日曜)から7月10日(水曜)までアゼルバイジャンの首都バクーで開催される第43回ユネスコ世界遺産委員会で日本の百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されることが確実視されているということですが、そう言えば、ヤマト政権ってどうやってできたのかさえもよくわかってないかもと。

古墳時代

出典:NHK

で、2019年5月29日に放送された「歴史秘話ヒストリア」”巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥・古市古墳群”の録画を見ました。

「えっ、大きさは違うけど同じ形の前方後円墳が地方のこんなところにあるのはなぜ?」、「倭の古墳は王が力を誇示するためだけの古墳じゃなっかたんだ」と、色々と「へぇ~」が。

世界遺産に登録される前に知っておいた方がより百舌鳥・古市古墳群のすばらしさがわかると思いますので、記事にまとめました。

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ヤマト政権は前方後円墳で日本をまとめあげた

大山古墳初調査で前方後円墳誕生の秘密が

大山古墳(仁徳天皇陵)、2018年初調査

中国の「宋書倭人伝」に記された”倭の五王”は天皇家の祖先とも言われる大王たちで、その一人と言われる仁徳天皇の墓と言われてきた大山古墳は、天皇家の墓として宮内庁が固く禁じていたため、謎に包まれてきました。

仁徳天皇

出典:NHK

2018年10月23日、宮内庁と地元の考古学者による初の合同調査が行われました。調査地点は外側の堤の3ケ所。

石敷きが堤の上までびっしりと拳大ぐらいの礫がずっと敷かれていました。

円筒埴輪

出典:NHK

幅2mの間から4、5本ぎっしりと覆うような形で円筒埴輪が。堤一周を囲んでいたと推測され、3万本という説があります。

敷石と円筒埴輪のルーツから3世紀に前方後円墳をつくるようになった理由が見えてきました。

大山古墳(仁徳天皇陵)調査から前方後円墳は各豪族の墓の要素を取り入れたものと

敷石のルーツは島根県出雲市の西谷墳墓群は弥生時代の豪族の墓でみられます。

西谷墳墓群

出典:NHK

円筒埴輪のルーツは岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓でみられます。弥生時代の列島最大の墓で、この地域を支配した豪族のものです。
墳丘の頂部、周辺から円筒埴輪の前身である特殊器台が出土しているのです。

楯築弥生墳丘墓

出典:NHK

前方後円墳の後円の起源をたどると、弥生時代の瀬戸内の地域に多い丸い墓には祭祀を行うでっぱりがあり、前方の形のルーツと言われてます。

弥生時代の後期に有力だったと考えられる奈良盆地の勢力、ヤマトが各地の豪族たちに呼びかけ連合政権をつくり、その連合の証として敷石、埴輪、形と各豪族の墓の特徴を取り入れて前方後円墳をつくったと考えられます。

このことからヤマト政権の成立、前方後円墳の誕生の秘密は、ヤマト政権が各地を征服したのではなく、社会を統合しようと倭人が向かった結果だったと考えられるということがわかりました。

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なぜ百舌鳥古墳群は巨大なのか?

朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の3国に分かれており、その中で高句麗は朝鮮半島北部の騎馬民族の国で、激動の時代と言われたの5世紀に強大な軍事力を誇ってました。

5世紀の東アジア

出典:NHK

高句麗古墳群は2004年世界遺産に登録されていますが、その古墳の部屋に250人にもなる兵士が馬にも甲冑を着せた重装備の騎馬隊の画が描かれてます。

高句麗は繰り返し南下して百済を攻撃、百済は倭に援軍を求め、2国は同盟を結びます。

高句麗と対立していた百済は大きな墓をつくろうとしても余力がありませんでした。それは、経済力と労働力を漢江の手前に巨大な城壁(幅43m、高さ11m)をつくることに使ったからです。

百済の城壁の規模

出典:NHK

百済は高句麗の脅威にともに対抗するために、倭に鉄の技術を伝えました。鉄剣や甲冑をつくるためにです。
実際、奈良の古墳群の出土品が祭祀用が多いのに対し、百舌鳥・古市古墳群では鉄の品が多く一変してます。

3世紀の大阪平野と海

出典:NHK

こうした東アジアの緊張状態の中で倭がはじめたことは膨大な労力を必要とする巨大古墳づくりでした。

倭の大王は、国の命運を託した防衛装置としての役割として古墳をつくったと考えられます。

この頃は大阪平野の海岸線は現在よりも内陸に入り込んでいましたので、海辺にそびえる大きな百舌鳥古墳群を見た新羅などの使者はとてつもないインパクトを受けたと考えられます。

さらに、奈良盆地に向かって川を進むと、古市古墳群が威容を現します。

その情報は使者を通して、高句麗に届いていたと考えられます。

5世紀、大阪平野に現れた百舌鳥・古市古墳群は古墳という役割を超え、倭を防御する城の役割を果たしたと言えます。

百舌鳥・古市古墳群は特別巨大にする必要があったのです。

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前方後円墳が全国に数千ある理由

前方後円墳が弥生時代後期の豪族の古墳を取り入れたものということは前述ですが、大阪地方の前方後円墳と全国に数千ある前方後円墳にも深い関係があるのです。

深い関係を知るためにいくつかの前方後円墳を見ていきましょう。数が多い理由もわかってきます。

百舌鳥・古市古墳群から北東に700km離れた岩手県奥州市には角塚古墳という日本で一番北にある前方後円墳が存在します。
5世紀の後半に胆沢地方にまでヤマト政権の力が及んでいたことがわかります。

百舌鳥・古市古墳群から南西に500km離れた宮崎県西都市の西都原古墳群にある九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳は大阪藤井寺市の沖津山古墳(全国で9番目の大きさ)と全くの相似形にあるのです。

遠い距離にあるのに同じ設計図の古墳

出典:NHK

大きさは違っても同じ設計図からつくられているのです。高度な土木技術が伝わったことが物語れます。

西都原古墳群の被葬者と畿内の中枢部と非常に密接な深い関係があったことが示されているということです。

ヤマト政権は、朝鮮や中国などの交易や軍事などのため、南九州が持っていた航海技術を求めたと考えられます。

南九州の高い航海技術

出典:NHK

おそらく、前方後円墳というのは王が死んでからつくられる墓地ではなく、全国の各地域の王は生きてるうちにヤマト政権と同盟を結び、前方後円墳をつくる許可をとり、設計図をもらってつくられていた墓と考えられます。

こうして、ヤマト政権は自らを頂点とする秩序をつくりだしていったと言われています。

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最後に

群馬県高崎市の保渡田古墳群八幡塚古墳には無数の馬の蹄(ひづめ)跡が残っていました。

弥生時代にはいなかった馬が5~6世紀には大量に生産されたという考えられる証がこの場所に残っています。

高句麗の騎馬軍団の威力を感じたヤマト政権が朝鮮半島から導入し、生産を急いだのでしょう。

ヤマト政権は各地で前方後円墳をつくることを許可して合同でつくることで、技術など様々なことを得ることができたと言えます

交易ネットワークのシンボル

出典:NHK

さらにヤマト政権は前方後円墳を交易ネットワークのシンボルとして利用して経済連合体を形成させ、日本の一体化につなげたと考えらるのです。

前方後円墳は古墳であり、城であり、同盟の証であり、交易ネットワークシンボルであると、非常に大きな役割を果たしていたということを知り、倭の大王の偉大さを感じることができました。

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CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK