明智光秀は怨恨ではなく、信長の構造改革に反発、暴走阻止の延長線上の四国征伐がきっかけで本能寺の変を起こした!というのが最有力。

光秀が本能寺のへんを起こしたのは四国討伐が直接的な原因

2020年1月1日にNHKで放送された「本能寺の変サミット2020」では、日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変を気鋭の研究者7名と本郷和人、爆笑問題が一堂に会し明智光秀が主君・織田信長に謀反した理由を最新情報から諸説を整理しつつ、導こうとしてました。

気鋭の本能寺の変研究者7名

出典:NHK

数年前から四国説が有力となっているという認識ですが、今まで信長の命で延暦寺焼き討ちまで行った光秀がそれだけの理由で信長への謀反を起こしたとは思えなかったのですが、今回の本能寺サミットで変を起こすまでの大まかな理由は一本につながった気がしましたので紹介します。
<Sponserd Link>



明智光秀が本能寺の変を起こした最有力理由

怨恨(えんこん)説

通説として長く信じられてきた怨恨説の根拠の一つは「惟任(これとう)退治記」で、本能寺の変の4か月後羽柴秀吉が書かせた光秀を討伐したという記録にある。

光秀が信長を討ったのは、決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのであると。

そして、後世の資料では様々な信長を恨んだエピソードが書かれているが、「川角太閤記」の本能寺の変の2週間前に起こった徳川家康の饗応役解任が最も有名です。

怨恨説への専門家の意見

出典:NHK

しかし、専門家7名は怨恨が本能寺の変の主原因とは言えないという方ばかりです。

宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には”人々が語るところとによれば、信長の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと足蹴にした”と記されていますが聞き伝えですし、「惟任(これとう)退治記」は秀吉が自分上げ、光秀下げも意図もあったはず。

ちなみに、斎藤利三をめぐる怨恨説もあったそうです。

稲葉家譜に本能寺の変の4日前に光秀は斎藤利三のことで信長に叱咤されたことが記されているが、家譜とは基本大名家もの先祖をたたえるため家の歴史や功績を後世に2次的に編纂されたものなので、研究者としては一次的な資料を元に事実に迫ることが優先。

怨恨説は資料の信用性に疑問があるということです。
<Sponserd Link>



共謀説

共謀説への専門家の意見

出典:NHK

宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には”光秀は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”と記されてます。

計略に長けた光秀が何者かと共謀して本能寺の変を起こしたのではないかという説、

イエズス会が信長を倒したい理由

出典:NHK

信長が三職推任(すいにん)を強要(?)していた相手の朝廷と光秀が共謀した説やイエズス会がコントロール不能になった神を冒涜する信長を倒すため光秀と共謀した説がありますが、朝廷との対立構造はなく、宣教師オルガンティーノは本能寺の変後に安土城から逃げ出したということもあり、専門家7名は共謀説はあまり考えられないという方ばかりです。

<Sponserd Link>



鞆(とも)幕府推戴説

足利義昭は信長に敗れ、京都を追放され、広島県福山市鞆の浦に逃れ、打倒信長を画策していたのです。

鞆幕府推戴説への専門家の意見

出典:NHK

明智光秀に関して最も信頼されている古い記録は本能寺の変の15年前(1567年)の「永禄六年諸役人附」で光秀が越前の国で足利義昭陣営の足軽衆であったことが記されてます。

義昭と信長の仲介役が光秀でしたが、その前に、光秀は将軍義昭とどういう接点で結びついたのかは、長い間謎でしたが、2017年に「針薬方」という細川家の家老米田家にのこされたこの記録で初めてわかることになります。

この詳細については先日、「NHK大河ドラマ「麒麟がくる」主人公明智光秀は足利義昭や織田信長に仕える前は外科・産婦人科の医師だった!」をアップしてますので、そちらで詳細をご覧ください。

上洛を望む義昭が光秀に近づき本能寺の変を引き起こしたとする説で、本能寺の変10日後に光秀が義昭に宛てた書状が残っている。”将軍のご上洛につきましてはすでにご承諾申し上げています”と。

しかし、専門家は山崎の合戦直前だった書状ということで、本能寺の変の前にからという話ではないという反対意見があった。

<Sponserd Link>



構造改革反発説

この構造改革とは信長の預治思想を元に

預治思想とは土地は全て天から天下人たる信長に与えられたもので、各大名はその土地を預かっているだけ、そうすることで、争いの元だった土地の奪いはなくなるという考え方。秀吉、家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっています。

預治思想

出典:NHK

少なくとも本能寺の変の2年ほど前から、重臣たちも信長の理念には賛成だけど、実際のところは苦しいということで軋轢が生じていたことは間違いないのですが、

構造改革反発説への専門家の意見

出典:NHK

しかし、信長は効率、合理主義過ぎて、家臣の気持ちは全くわかってなかったのです。

過去、荒木村重や松永久秀の裏切られたのですが、謀反を起こした理由が全くわかってなかったということもあり、自身の理念を家臣はわかってついてきていると
<Sponserd Link>



暴走阻止説

1580年(天正8年)、石山本願寺との戦いが終わり畿内を平定され、京都周辺は天下静謐となったが信長は戦いを止めなかったのです。

信長は旧来の戦国大名と同じように、全国各地の従わない勢力に対して武力で圧し潰そうとしたのです。

戦さ続きの終わりの見えない日々に、織田家臣は疲弊しつつあります。しかし、信長は1582年(天正10年)に四国攻めを決めるのです。

織田家有力武将の任された地域

出典:NHK

戦争の自動機械と化した信長の暴走を止めるには信長のひざ元である畿内を任され、軍事的No.2 の光秀は危機感を持っており、暴走を止めないといけないと考えていたと思われます。

その考えが本能寺の変の7日後である1582年(天正10年)6月9日付の「明智光秀覚条々」に記されています。

明智光秀覚条々

出典:NHK

細川藤孝に向け光秀自身が直々に書いたものが現存しており、その中に「信長を殺した理由は、自分の息子や細川忠興(細川藤孝の息子であり、明智光秀の娘の夫)の世代に権力を委譲させるためで、私利私欲はない」と。

光秀は天下をとるためではなく、信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性もあるが、現存する資料では確定させるまではというところです。
<Sponserd Link>



四国説

2014年岡山県林原美術館に保管されていた「石谷家(いしがいけ)文書」は明智光秀の重臣斎藤利三と長曾我部元親等がやり取りした膨大な数の手紙が発見されたことで、本能寺の変を起こした原因は信長の四国攻めという説の可能性が大きく考えられるように。

本能寺の変10日前(1582年5月21日)に元親から光秀宛てに出された書状には”信長との間を始終計らってくれたことは忘れない。阿波国内の主要な山城は明け渡す。”と記されており、信長の要求通り光秀が元親の説得に成功したにもかかわらず、信長は長曾我部を攻めることを決めたのです。

長曾我部討伐軍が四国渡航予定の1582年6月2日の未明に光秀は本能寺に攻め入るのです。

四国説への専門家の意見

出典:NHK

専門家7名のうち5名が賛成と。

<Sponserd Link>


 

<Sponserd Link>



最後に

しかし、光秀は四国渡航予定日に謀反を起こす計画したのではなく、信長と信忠が少ない手勢で京都に滞在しているという好機が奇跡的に起こったので、そこは突発的な犯行だったと考えられるのではないのでしょうか。

秀吉は、信長と信忠が少ない手勢で京都に滞在しているので、光秀が謀反を起こす可能性が高いと考えていたこともありそれほど疑わず中国大返しをしたのではないかと思います。

ということで、光秀が天下を取れなかった理由はこの本能寺サミットの放送であったことを別記事にします。

<Sponserd Link>


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK