福祉家渋沢栄一、弱者を切り捨てる言葉”惰民”を認めず、「論語と算盤」を貫いた生涯を日本人として知っとくべき!

渋沢栄一

2019年9月4日、NHK「英雄たちの選択」は”渋沢栄一 知られざる顔~“論語と算盤(そろばん)”を読み解く~”でした。

2024年から流通する予定の新一万円札の図柄となることになった渋沢栄一は第一国立銀行、日本鉄道会社、東京電灯会社(東京ガス)、共同運輸(日本郵船)、日本鋼管(JFEスチール)、東京石川島造船所(IHI)、日本化学工業、抄紙会社(王子製紙)、大阪紡績(東洋紡)、田園都市(東京急行電鉄)、帝国ホテル、東京株式取引所、東京商法会議所など、500もの株式会社を設立した実業家、”近代日本資本主義の父”と言われた人物なのです。

しかし、今回の「英雄たちの選択」は社会福祉家の顔の渋沢についての話でした。

当時の東京は人口が50万人にまで減り、その60%が生活困窮者といった状況。
渋沢栄一は、貧困者の救済のための東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)に、東京府議会から”惰民”のために税金を使うことを反対された時に渋沢はこのまま税金で運営するか、個人で運営するか選択を迫られます。

渋沢はどういった選択をしたのか。またその頃、東京府議会で発せられてた強烈な言葉”惰民”に対しての脳科学者中野先生のお言葉にものすごく納得しましたので、こちらも合わせて紹介します。
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事業家は引退したが、死ぬまで社会福祉家だった渋沢栄一

富国強兵の時代の中、養育院運営に尽力した渋沢

明治初期

明治の初め、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。

しかし、その頃はそう言った人たちを収容するだけの施設でしかなく、その人たちの更生目的もなく、施設自体をどう維持していくのかも考えられてなかったのです。

渋沢栄一は1874(明治7)年、東京府知事大久保一翁(忠寛)より養育院の設置資金にも使われた、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金”七分積金”の運用を貧困者の救済のために使ってほしいと依頼されます。

その時、170万両(現在の170億円相当)を明治政府が一部インフラ整備に流用し、おそらく残りを狙っていたのでしょう。

渋沢は養育院の現状を目の当たりにし、社会全体で事業として確立させなければならないという思いで養育院を通して福祉活動に非常に深く強く入り込むことになります。

1876(明治9)年5月11日、渋沢は養育院事務長に任命され、七分積金を使い、寛政の改革を行った松平定信の更生システムを基として、近代的な診療設備や職業訓練所を設け社会復帰を支援、子どもの学問所を作り知識を身に付けさせたり改革をすすめました。

明治12年以降

養育院の運営は1879(明治12)年以降、東京都の税金を使われるようになってました。

明治政府が富国強兵政策を強く進めていた流れの中、1881(明治14)年、東京府議会での養育院廃止案が提案されます。

「貧民を救うために多額の税金を使うことはやめるべき」と。また、田口卯吉は渋沢を批判「渋沢がやっている、税金で貧民を助けることは”惰民”を増やすだけ」とも。

田口卯吉

出典:NHK

「貧しい人を助けることは、日本の資本主義を豊かにするためにも、必要なこと」と主張する渋沢。今後の選択が迫られます。

渋沢栄一の選択

社会福祉事業は政府・自治体のバックアップが必要、税金で維持するか民間資金で運営継続するしかないのどちらを選択したのでしょうか?

渋沢は議会で懸命に反対しましたが、1884(明治17)年をもって公費支出の停止による東京府直営制は廃止されることが決定されました。

そこで、渋沢は養育院の所属は東京都のまま渋沢が運営をする形(委任経営)を申し込み、民間資金で運営を継続を選択したのです。

渋沢は、東京府病院貯蓄金の利子、元養育院敷地の売却、鹿鳴館でのバザーなどで運営資金を確保(現在の6,800万円)相当し養育院の存続に奮闘し、多くの経済人から寄付を仰ぎ、存続することができたのです。

東京養育院の資金は1885(明治18)年は3万5,031円(約2億9,800万円相当)が5年後の1890(明治23)年には11万8,104円(約8億8,500万円相当)に増えたのです。

その後、東洋一の施設となります。
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“惰民”という貧しい言葉から見える日本人の国民性の傾向

実は今回の放送で、一番心に残ったことは脳科学者中野信子先生のお言葉でした。

惰民という言葉は自己責任という言葉とリンケージがあると思いますけど、非常に貧しい言葉と思います。

惰民にしてしまうのは、その人の責任より構造上の問題の方が原因としてははるかに大きいと思うのです。

江戸時代、ずっと、村請制という連帯責任で治めたから、働かない人がいると、自分が払わされるという気持ちがあるので、日本は働かない人だけでなく、働けない人への否定感が非常に強い国民性があると思う。(ここだけは磯田先生のお話)

日本人そういう傾向が強いのです。自分は誠実にまじめにやって成功した。だから、成功できないのは誠実にまじめにやってないからという認知がなりやすい。想像力が足りないと言えばそれまでなんですけど、自分は頑張ってきたという自負があるから攻撃性が高くなるのです。

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世界大恐慌の影響での困窮者、没1年前救済に動いた渋沢

1909(明治42)年、70歳になった渋沢は経済界(銀行を除く)から引退しますが、社会福祉活動は終生つづけました。

1929(昭和4)年、世界大恐慌の影響で日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われました。

救護法

出典:NHK

国会で救護法が制定されました。しかし、予算がないを理由に政府は実施を先延ばしします。

福祉事業家たちは、最後の頼みの綱として91歳、病気療養中の渋沢に救護法実現への協力を仰ぎました。

そこで、渋沢は「私はもうどれだけ生きられるかわからない」「私の命をみんなに与えていくのは本望だ」と、大蔵大臣に面会し、「私たちが一生懸命に働いてきて、日本の経済をこのようにしたのは、この時こそ皆さんに役立てて頂きたいからでありました」「渋沢の最後のお願いです。救護法を実施してください」と、申し出ました。

2年後、大蔵大臣は予算を工面し、救護法を実施し、24万人もの人々が救護されました。

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最後に

渋沢栄一が一万円札の図柄なった理由は、事業家として凄かっただけでなく社会福祉家としての両方を兼ね備えた方だったからという認識ですが、後者の功績の方が大きく、今求められてるものだととわたし自身は思います。

渋沢の講演会での肉声が番組内でありました。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する」「ただし、それに伴う肝要なる道徳仁義というものがともに進歩していくかと言うと、残念ながら「否」と答えざるを得ぬ」「仁義道徳と生産殖利というものは元来ともに進むべきものであります」と。

そうですよね。便利が先に行きすぎて、便利にしなったことに対して感謝する時間も余裕もなく、次の便利が目の前に現れる今の社会では、仁義道徳の心や倫理感の遅れてる気がします。

これ以上の便利は本当に必要なのでしょうかね?

生きていくために、仕方なく必要としていかなければならないような世の中になってるような気がしますが…

便利が、生活していく中でこれ以上必要でないのに、必要としてないとお金に困る可能性が高い社会は構造上の問題なのか明確にはわからない世の中だから、生活水準が低いわけではない日本でさえも生きていくことにおいて不安なのでしょうね。他国も同様だから、富国強兵、ナショナリズムに世界が向かいつつあるのかもと考えてしましました。

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CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK