北野武を映画監督へと飛躍させ、放送作家秋元康が生まれた場所。驚異の深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」‼

松嶋菜々子のオールナイトニッポン

2019年9月12日(木)NHK BS「アナザーストーリーズ運命の分岐点」は“熱気が生んだ真夜中の解放区~オールナイトニッポン伝説~”について松嶋菜々子さんがナビゲートしてくれました。

1967年10月2日、オールナイトニッポンが初めて放送され52年になり、延べ300人以上のそれぞれの時代のパーソナリティが存在します。

シンガーソングライターの中島みゆきさんは当時はテレビには出演されなかったのですが、オールナイトニッポンでは意外な素顔を見せ、大人気に、

あのレジェンド北野武さんは歯に衣着せぬ毒舌で、あらゆることを笑いに変え、

関西から呼んだ笑福亭鶴光さんは放送コードギリギリのエッチな放送で物議をかもし出し、

一方で社会問題(いじめ)に真摯に向き合った中野サンプラザさんもおり、

まさに何でもあり、自由活発のオールナイトニッポンの誕生、またそのオールナイトニッポンから生まれた名放送作家、名音楽プロデューサー秋元康さん、名映画監督の北野武さんのオールナイトニッポンに対する思いをお話してくださっており、貴重な放送です。

今のオールナイトニッポンの話はなく、なつかしいオールナイトニッポンの話ばかりですが、非常によかったので、紹介します。
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オールナイトニッポンは伝説を生み出す

北野武さん(ビートたけし)

今やお笑いだけでなく映画監督としても多忙な、レジェンド北野武さんがオールナイトニッポンのためならと、インタビューを受けてくれました。

北野武映画監督

出典:NHK

初回放送は生ではなく録音だった

既に漫才ブームで先頭を走っていたツービートの一人としてのたけしさんは「俺にとっては漫才ブームは終わっていた」という思いを持っていたそうです。

そんな時、仲のいい放送作家高田文夫さんが「深夜のラジオやらない」と声をかけてきたのです。

「漫才も終わりだから、ちょっと暇だからしゃべるか」ということで、はじめることになったそうです。

1981年1月1日、第一回の放送は生放送と思いきや実は録画だったそうです。

『初回はなにしゃべってもいい」とか言うから、行ったら「録音しときます」って。

毒舌なたけしさんの話を上層部が本気で心配して、「万が一の場合」ということで録画になったそうですwww

この日の放送でたけしさんは「これは、ナウいきみたちの番組ではなく、ワタシの番組です」とリスナーに言い放ったのです。

この宣言通り、たけしさんはその日の気分に正直に自分をさらけ出して話していきました。

「見えないけどラジオを聴いてる人たちの雰囲気がなんか感じるんだよね」

最初は「深夜放送でありがちな若者の味方みたいなああいうのは一切いや」で、若者に寄り添わないトーク。

大学やめたあたりから、ドロップアウトした感じがあったので、ドロップアウトした世界で売れちゃっただけだから、あまり威張れないのが前提にあったそうです。

ウソのないたけしの話は新鮮でリスナーの心を鷲づかみにします。

若者から届くハガキが楽しみになっていく

リスナーはたけしさんに読んでほしい一心で知恵を絞ってハガキを書き送りました。

常連の投稿者が人気者になり、”ハガキ職人”という言葉も生まれたのです。

たけしさん自身、徐々に若者から届くハガキが楽しみに。飲みに行ったりもしたそうです。

ハガキを出してた人の中にナンシー関さんや宮藤官九郎さんみたいに有名になった人もいます。

ハガキ職人で有名になった人

出典:NHK

たけしさんのラジオに触発され、人生が変わったという人は少なくない

オールナイトニッポンにはほんのちょっと負け組の文化があり、自分たちの負けたこととか自虐とかを笑いに変えてくれるパーソナリティーのおかげで生きていけたのかもしれない。

語り草となった放送

1983年、たけしさんは映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として出演しました。

映画の評判は上々でカンヌ映画祭でパルム・ドール(グランプリ)の最有力候補と言われており、その結果発表はちょうどオールナイトニッポン生放送中だったので、たけしさんはライブで伝えることになったそうです。

しかし、「楢山節考」がグランプリに、何の賞にもかすらなかったそうです。

たけしさんは少し期待していた自分の恥ずかしさも含め、笑い飛ばしたのです。

その後、映画監督をはじめとする異分野で活躍していきます。ラジオで様々なことを批評したことが原動力となったそうです。「自分でやったらどうなんだ」ということで。

最終回の放送

10年で区切りをつけることにした最終回の放送では、

「最後だっつうんですっぽかしてやろうかなと思ったんだけどね」「やっぱ最後はどうにかしたい、オレも普通の人に戻ってしまおうかなと」で始まり、

放送の終わりはいつもは「バイビー」で締めるところを、初めて「ありがとう、さようなら」と呟いたそうです。

外には300人のリスナーが出待ちしていたほどだった。

オレだけのためのラジオは、いつしかオレときみたちのラジオになっていたのです。

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秋元康さん

オールナイトニッポンリスナーとして

音楽プロデューサーにして作詞家秋元康さんのクリエーターとしての原点はオールナイトニッポンとご本人。

「モノを作っていく中でリスナーは何を考えてて、時代はどう動いて行って、パーソナリティーはどんな思いで話しているのかを知るための教科書がオールナイトニッポンだった」ということです。

オールナイトニッポンなど、深夜で一人で聞いてると、自分しか聞いてないと思うのだが、学校に行くと、聞いてた人がいて、共感できることがうれしかったのかもしれません。

秋元さんは、鶴光さんのオールナイトニッポンでは、実はエロトークより、よく名前が出てきた”宮本”さんに興味があったそうです。宮本さんはスタッフだったのに番組によく出てくるので、どんな人だろうと。

そのことが後に「オールナイトフジやとんねるずの番組のネタになっていったと」いうことです。

秋元さんは、ハガキでなく平家物語のパロディのコントの台本をニッポン放送送りつけたところ、亀渕さんの目に留まって、呼ばれたことから、ニッポン放送に出入りし、会議にも出席するようになったそうです。

一番リスナーに近い、一番視聴者に近いことが、おもしろく、以降ずっと、受け手と送り手の間にいることが自分の存在であると、秋元さん。

放送作家として

秋元さんは20歳の頃、オールナイトニッポンの放送作家となります。

タモリさんに最初につきます。

タモリさんは自分が気に入っただけという理由で、無名のバンドの曲を繰り返しかけたそうです。その曲はもんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」で、200万枚の大ヒットを記録します。

秋元さんは、そのことで個人の強い思いがヒットを生むということを学んだと。

パーソナリティー長渕剛さんと向き合って

一人一人のリスナーの思いと向き合っていきます。

「オールナイトニッポン、深夜放送で学んだのは100万人の人がそれぞれ別の思い出リクエストしたってことなんですよね」「事情が違うんですよね」「『このリクエストハガキはどういう思いで書いているだろうか』など、リスナーの思いを想像してましたよね」

「結局、どんなに時代が流れても同じだっていうことに気づくわけですよね。ある時に」

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最後に

実は、北野武さん、秋元康さんの前に、オールナイトニッポンの歴史で欠かせない人が紹介されてました。

オールナイトニッポンがはじまってまもなくパーソナリティーに抜擢された製作部の一社員亀渕昭信さん。その後、ニッポン放送の社長にもなった方。

彼は今までにない型破りな企画を打ち出して、オールナイトニッポンを一躍人気番組に押し上げました。

リクエストハガキが今まで週に4,5通だったのが2万通を超えるように。亀渕さんは全てのハガキに目を通していたと。

そして、オールナイトニッポンを今の形に総合プロデュースすることになります。

エロは世界を救うという持論の鶴光さんを関西から呼んだのも亀渕さんだそうです。

亀渕さんがパーソナリティーをやっていなければ、今のたけしさんや今の秋元さんはいなかったかもしれませんね。

最後に、どうでもいい終わり方ですみませんが、鶴光さんのエッチな声をだす女性が峰不二子と同じ声(増山江威子さん?ほかにバカボンのママ)に聞こえちゃいますが、わたしだけでしょうかね?

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CY

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK