2020年8月12日(水)NHK「歴史秘話ヒストリア」では”ガダルカナル 大敗北の真相”が放送されていました。
太平洋戦争の行方を決定づけたと言われるガダルカナルの戦い。
米軍と日本軍が半年の長きにわたり、全面戦争を繰り広げましたが、結果は日本軍の大敗北。戦力に勝る米軍に突撃を繰り返し、無謀な戦いだったと言われてきました。
しかし、去年2019年に、従来のイメージを覆す新史料が発見。機密指定を解かれた米軍の内部文書(分刻みの総数1千ページに及ぶ戦闘記録)にて日米の知られざる攻防がつづられていたのです。

出典:NHK
これまで圧勝とされてきた米軍が、実は敗北の瀬戸際まで追い詰められていたことが明らかに。
実は日本軍は2度も勝つチャンスがあったのに、そののチャンスをどうしてつかむことができなかったのか。
今回の記事では2度目の最大のチャンスについて。
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目次
ガダルカナル島の敗北は陸軍・海軍と縦割り組織が原因
ガダルカナル島米軍司令部への陽動作戦も火力が足りず後一歩で敗北
新たに発見された米軍の戦闘記録では1942年8月20日、戦況を左右する出来事が起きてました。

出典:NHK
米軍の飛行場整備が完了していたのです。
31機がガダルカナルの飛行場に配置され、米軍の戦略は着々と増強されていきます。

出典:NHK
海兵隊は迫撃砲などの強力な重火器を装備していました。
防御にも力をいれていました。米軍は飛行場を取り囲むように有刺鉄線を巡らせ、難攻不落の陣地を築いていました。
1942年9月、一度敗北した日本軍は形成を逆転するため、大本営は次なる一手を打ちます。
陸軍は新たなジャングルの戦いに精通した6,000人の大部隊、川口支隊を投入。

出典:NHK
その指揮官、日本軍きっての知将と称された川口清健少将は米軍を窮地に追い込む作戦をたてていました。
陽動作戦で米軍の隙を突き、飛行場へ接近し、敵の司令部目前に迫ろうと。
アメリカの歴史研究者リチャード・B・ブランクさんは「日本は勝利に最も近づいていました」「ここでアメリカが敗れれば、太平洋戦争を続ける意欲を続けるなくしていたに違いない」と。
日本軍に絶好の機会が訪れます。

出典:NHK
川口少将は、部隊を分け、おとりとして左右から飛行場を攻撃します。

出典:NHK
敵の注意を引きつけているうちに奇襲部隊が司令部のあった飛行場南側を叩こうという作戦を実行します。

出典:NHK
アメリカの歴史研究者リチャード・B・ブランクさんは「私が思うに、川口少将は最も優れた指揮官でした」「米軍の司令部を落とせば、兵士の動きをマヒさせ、その隙に飛行場を占領できたでしょう」「米軍はガダルカナル島を維持できず敗北は決定的です」とも。

出典:NHK
奇襲作戦の要となるのは飛行場から南におよそ2Km、日本軍がムカデ高地と呼んだ丘陵地帯でした。
9月13日夜、ムカデ高地を進んだ川口支隊は、防御が手薄な米軍の陣地に攻撃を開始します。

出典:NHK
戦闘記録には海兵隊の混乱ぶりが刻銘に記されていました。

出典:NHK
海兵隊の混乱に乗じてムカデ高地を突破、米軍司令部の目前まで迫りました。
しかし、後一歩のところで激しい反撃に合い、防御ラインを突破を突き崩すことはできませんでした。

出典:NHK
原因の一つは火力の不足でした。
武器を運ぶ輸送船を海軍が出し渋ったことが発端でした。戦況を理由に輸送船ではなく駆逐艦で行うことになったのからなのです。
輸送船を出すことを強く要望していた二見参謀長は決定を聞いて怒りをあらわにしました。
輸送船に比べて運べる量が限られる駆逐艦では十分な武器を島に送り届けることができないからです。

出典:NHK
海兵隊は強力な重火器を装備していましたので、火力の不足に喘いだ川口支隊は633人の犠牲者を出して敗退します。

出典:NHK
「6千の将兵米なしと、何という悲惨な戦になったものか」と言う二見参謀長を、大本営は戦いを悲観していると、事実上更迭します。
そして、大本営は新たな作戦の準備を始めます。
2度に渡って大敗北を喫した日本軍の本当の悲劇はここからが始まりでした。
占領した飛行場に戦闘機を配備し制空権を握った米軍は、輸送ルートの安全確保に成功します。戦場には水陸両用車など最新の兵器が投入されました。
そして、増援部隊もやってきて、米軍は着々と戦力を充実させていきました。
一方の日本軍は、今度は海軍が日本船の使用に同意し、2万人以上の兵や物資を島に送りました。

出典:NHK
ところが、米軍機から攻撃を受け、損失を受けてしまいます。宏川丸は沈没し、現在でもガダルカナル島沖合に姿を残しています。
補給が困難になると、島に取り残された日本兵たちはさらに厳しい状況に追い込まれます。
再三にわたって、増援部隊を送り込み、米軍と激しい死闘を繰り広げる日本軍ですが、結局飛行場奪取には至りませんでした。
その後、ガダルカナル島の多くの日本兵は戦闘というより病死や餓死した
日本兵たちは、再起を誓い島中に身を隠します。
その数は日増しに膨れあがっていきました。補給が途絶え食料がない中、ジャングルをさまよう兵士たちの決死のサバイバルがはじまります。

出典:NHK
補給が途絶え、孤島に取り残された2万人を超える日本兵の中に陸軍小尾康夫少尉がいました。
2年前に公開された小尾さんの手記がには「9月23日、食料皆無となりて5日目。俺たちはよろめきながら海岸に進んだ」「9月24日椰子の実を拾いに行く。今となっては天与の糧である。ガ島唯一の戦力源となっている」
しかし、2万人超もいるのです。兵士たちは島中の椰子の実を食べつくしてしまいます。
「10月28日、天気のよい日は木の若芽を食べ、虫を取り、トカゲを捕らえ、とにもかくにも命の灯を燃やし続けた」(小尾さんの手記)
兵士たちの体力は日ごとに衰えてきました。
実際にガダルカナル島で戦闘に加わった元海兵隊は今こう話します。「日本兵は飢え、病気、マラリアに襲われながらも戦い続けたのです」「本当に気の毒に思った」
1942年11月の上陸から2ヶ月。小尾さんの身体は限界に近づいていました。
「11月3日、俺たちはこの頃、故郷の夢を見ることが少なくなった、寝ても覚めても、食うが頭から離れない。ただ、食べたい」(小尾さんの手記)
追い詰められた陸軍、食料・物資の補給を試みていた海軍も米軍の攻撃により船を次々と失っていきます。
海軍はついに被害に耐えかね、陸軍に対しガダルカナル島の放棄を申し出ました。
当然陸軍はありえない話と断ります。その後の陸軍には、海軍の協力を受け入れないトラウマが。
「12月27日、体内にはもう養分がなくなったらしい。はでさえも金冠や充填物が外れてしまったものを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」「ああ、おれは齢わずかに22歳で終わるのであろうか。まだ、この純潔をけがしてはいなかった」
兵士たちが次々と餓死する中、陸海軍は一向に打開策を示せませんでした。
大本営の参謀たちは撤退すべきかどうか議論を繰り返し、いたずらに時間だけが過ぎていきました。
その間、島では1万5千人の兵士が病気や飢えで命を落としました。

出典:NHK
1942年12月31日、やっと、日本軍が撤退を決定。
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最後に
生き残った兵士はガダルカナル島の西端にあるエスペランス岬から脱出しました。
その中には5か月にもわたった気が生活を生き抜いた小尾康夫少尉もいたということで、放送は終わっていました。
二見参謀長は更迭後どうなったかも知りたかったのですが、放送では触れることはありませんでした。調べたところ、どうやら宮崎で終戦を迎えたということです。
追い詰められた時の日本人の精神論・根性論の異常さは醜くく、このガダルカナル島の大敗北だけでなく、今でも恐ろしい問題を生み出してることに気を付けて生きなければいけないと感じます。
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