今年の6月、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がほぼ世界遺産に登録されることになってます。”長崎と天草地方の潜伏キリシタン”という言葉から多くの方が”島原の乱”、”天草四郎”を連想するのではないでしょうか。
”島原の乱はキリシタンが蜂起し、天草四郎を担いで幕府に対して反乱を起こしたが、幕府の総攻撃によって全滅させられた”という認識でしたが、近年みつかった松平信綱への天草四郎の返信した矢文での一揆の理由は、”キリシタン殉教”ではなくて”過酷な年貢の取り立てへの抗議”だったということで、誤った史実を勉強していたことを知りました。
しかしながら、2018年5月26日に放送されたBS-TBSの「諸説あり!」では島原の乱(1637年)は一揆ということだけではなく徳川幕府と豊臣家の最後の戦いだったということでした。
以前、丹後半島の豪族浦嶋子の父親が浦島太郎(日下部曽却善次)ということに非常に惹かれ記事を書きましたが、島原の乱も同じぐらい惹かれますので、記事にします。
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目次
島原の乱は日本歴史上最大の一揆
松倉重政の苛政で起こったことは否定できない(島原)
領民に対して
松倉重政は、実際の禄高は4万3千石の身分であるにも関わらず、検地によって領内の石高を10万石と過大に見積もって分不相応な島原城を建設しました。
さらに、幕府からの評価を高めるために領民から徹底的な搾取を行い、領民は実高の二倍以上もの重税を取り立てられて、生活が成り立たないほどになります。農民はよほど豊作でないと検地の通りの年貢を納められなかったのです。
また、さらに江戸城改築の公儀普請の負担を農民に押し付けたりしてます。
1625年、3代将軍・徳川家光からキリシタン弾圧の甘さを指摘された事から機嫌取りのため、常軌を逸した残忍冷酷な拷問によってキリシタン迫害を行うようになります。
常軌を逸した拷問法とは
キリシタンには
吉利支丹(キリシタン)の焼き鏝を顔に押し付ける
指を切断する
水責めや鞭打ちをする
さらに、雲仙地獄の熱湯を使ってキリシタンの拷問・処刑を実施するようなります。
年貢を納められない農家には
こどもを簑で縛り上げて火をつける”簑踊り”という拷問を行なったりするようになります。
寺沢広高も松倉重政と同じで(天草)
寺沢広高は、田畑の収穫を3万7千石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5千石と天草領内の石高を合計4万2千石と決定したが、現実はその半分程度しかありませんでした。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極めました。
乱の全容
乱のきっかけとなったのは年貢が納められなかった家の妊婦が、寒中の川にさらされ殺される残虐な事件でした。この事件で民衆の怒りは爆発します。
一揆軍は天草四郎を総大将に島原城を攻撃、同時に天草の富岡城も攻め、富岡城は落城寸前になります。しかし、島原城を落とせなかった一揆勢3万7千人は1637年12月1日、原城に集結します。
府軍総司令官・板倉重昌率いる幕府軍4万人は、原城に総攻撃をかけます。幕府軍が惨敗(一揆勢の死傷者が僅かに7人だったのに対し、幕府軍の死傷者は4000人)します。
その後、新たに着陣した松平信綱率いる12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は原城を包囲し、兵糧攻めをはじめます。
一揆軍は全国各地の使者を派遣しており、キリスト教に縁が深いポルトガルの援軍を期待していたようです。そのため、海辺の原城にて籠城したとも考えられますが、松平信綱はオランダ船2隻に原城に砲撃を行わせ、ポルトガルの支援がないことをアピールしてます。
一揆勢の士気は低下し、鎮圧されます。
乱を起こしたものがどうなったか?
反乱軍への処断は苛烈を極め、松平輝綱(松平信綱の長男)の島原天草日記には三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたって斬首され、みんな喜んで死んだと記されてます。
島原の乱に関する資料がほとんど残ってなく、この島原天草日記も徳川幕府の政治的な意図があった書物として書かれたものかもしれません。
ですから、今となって諸説が唱えられるようになってきたのではないでしょうか。では、諸説とは。
幕府軍が惨い行為をしたのは天草四郎が豊臣秀吉の孫(秀頼の子供)だったから、豊臣家の血筋を根絶やしにしようとしたのでは?ということは、島原の乱(キリシタン一揆)ではなく豊臣家の反乱だったのでは?と歴史研究家の説もあります。
また、天草四郎は落城寸前に奇跡的に脱出し、ルソン島(現フィリピン)にわたったという説もあります。
乱を起こされた大名はどうなった?
肥前島原藩2代藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの年貢を取り立てた罪と、一揆を招いた責任を問われて所領没収とにり、のち斬首となっています。
天草を領有していた肥前国唐津藩2代藩主の寺沢堅高も責任を問われて、天草領地は没収されましたが、寺沢堅高は精神異常をきたして自害し寺沢家は断絶しました。
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最後に
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がほぼ世界遺産に登録されると、潜伏キリシタンをテーマに、島原の原城跡や天草に訪れる方が増えるでしょう。
この記事を読んだ方が、もし訪れた時は島原の乱は天草四郎をはじめとするキリシタンだけではなく領民の苦しみを一緒に感じて頂ければ幸いです。
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