鳥羽伏見の戦い、兵力3倍そして最新兵器を備えた幕府軍の敗北理由は錦の御旗だけでなく慢心にもあった。

徳川慶喜役の草彅剛

2021年7月4日(日)の大河ドラマ「青天を衝け」の放送では、渋沢栄一の必死の訴えも叶わず慶喜は一橋家の殿から徳川家の上様(慶応2年12月5日に将軍)になりました。

 

その時の天皇、孝明天皇は徹底した攘夷思想の持ち主であり幕府を補佐する考えのでしたので、慶喜は将軍になっても有利に事を勧められるという算段だったのでしょう。

孝明天皇

出典:NHK

しかし、10日後の12月25日に孝明天皇は36歳で崩御(ほうぎょ)してしまいます。

後の明治天皇

出典:NHK

そして、幼い明治天皇が即位すると、岩倉具視・薩摩・長州の倒幕派に有利となっていくのです。 

そして、慶喜の最大の誤算がそこから鳥羽伏見の戦いまでの出来事。

2021年6月16日(水)NHK「歴史探偵」は”謎の将軍 徳川慶喜”としてこの大誤算について解明していました。

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鳥羽伏見の戦いの決断は慶喜の一生の失策

王政復古の大号令後、政府から排除された慶喜に巻き返す余地はあったのだが、

大政奉還後の新政府から薩摩が慶喜を締め出す

大政奉還の2ヶ月後、1867年(慶応3年)12月に京で大事件が起こります。

徳川と対立していた薩摩藩が、突如天皇が居る御所を封鎖。慶喜を排除し、勝手に新政府を作ってしまったのです。

この時、京に居た慶喜は薩摩と戦うのではなく、大阪城に退く決断を下しました。

まだ、慶喜には徳川が持つ強力な艦隊で、追い詰められた状況を挽回する手立てがあったのです。

この艦隊を使い大阪湾を封鎖すれば、薩摩の武器・弾薬の補給を止めることができ、戦わなくても敵を消耗させることができます。

また、大阪城は日本最強クラスの要塞で、薩摩が大阪城を攻めて来た時の備えも盤石でした。

日本最強クラスの要塞、大阪城

出典:NHK

城の周りに張り巡らされた水堀の幅は約80mもあり、敵の侵入を防ぎます。また、薩摩郡が大砲や銃で攻撃してきた場合は水堀から34mもある大阪城の巨大な石垣は大砲の直撃を受けても崩れない強さを持っていました。

徳川艦隊と大阪城に守られた慶喜は待っていさえすれば状況をひっくり返すことができたのです。

しかし、事態は慶喜の思惑通りには動きませんでした。

大政奉還をはじめこれまで緻密に計算し、事をうまく進めてきた慶喜に誤算が生じます。

江戸に薩摩が火を!徳川が報復で薩摩藩邸を焼き打ち

江戸では敵対していた薩摩が、放火などのテロ行為を行いました。

薩摩藩邸焼き打ち

出典:NHK

徳川方がこれに激怒し、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちにします。

徳川の兵が大阪に押し寄せた

出典:NHK

それでも怒りが収まらない徳川の兵たちは、慶喜に薩摩との戦を直訴するため大阪に押し寄せました。

大阪城は異様な雰囲気に包まれていきます。

現場にいた慶喜の側近の言葉

出典:NHK

「将兵たちの激高は激しく、とても制することはできない」

慶喜を刺しかねない

出典:NHK

「彼らの思いを拒めば上様を刺しかねない勢いです」と現場にいた慶喜の側近の報告があった上に、

徳川家大目滝川具挙から「此度の薩摩の暴挙、誠に許しがたく兵たちも怒りを募らせています」「故に、兵の士気も高く、今が何よりの好機かと」と挙兵を求められます。

大阪城にこもっていれば、戦わずして勝つことができるはずだが、薩摩との戦を拒めば兵たちに殺されかねない。

慶喜「いかようにとも、勝手にせよ」と、戦をすることを認めてしまったのです。

なぜ、認めたのでしょうか?

実は幕府は慶喜の改革によって洋式化し、薩摩や長州に引けをとらない軍事力を持っていたので、慶喜は戦をしても勝てると考えていた可能性があります。

薩摩藩に軍事力で全然適わないから鳥羽伏見の戦いで負けたというイメージがありますが、実は十分に圧勝できるだけの軍事力があったのです。

1868年(慶応4年)1月2日、徳川の主戦派たちは京へ進軍を開始、慶喜は大阪城で戦の成り行きを見守ることに。

鳥羽伏見の戦いの兵力の差

出典:NHK

この時、徳川の兵力は1万5千、薩摩郡のおよそ3倍にのぼります。

シャスポー銃

出典:NHK

最新の研究では、薩摩を上回る強力な武器も配備されていたこともわかってきました。

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鳥羽伏見の戦いでの慶喜の二つの大誤算

徳川兵の慢心という誤算

ここでまた誤算が。

その誤算を知る手掛かりが残されていました。

戊辰戦記絵巻物

出典:NHK

鳥羽伏見の戦いの経過を描いた全長60mの大作”戊辰戦記絵巻物”です。

鳥羽伏見の戦いの全貌を解き明かすため、この絵巻に最新デジタル技術で彩色を施すプロジェクトが行われています。

鳥羽伏見の戦いの布陣

出典:NHK

画面左手に居るのが徳川軍、右手に居るのが薩摩軍。

大砲の狙いを合わせている薩摩軍

出典:NHK

薩摩軍は大砲の狙いを合わせいつでも撃てる体制だったり、茂みに身を隠し険しい表情で攻撃の機会を伺っており、臨戦態勢です。

緊張感のない徳川軍

出典:NHK

一方、徳川軍はみんなで話し合って、中には笑っている人や下を向いてる人もおり、緊張感のない徳川軍が描かれていました。

弾をこめていなかった記述

出典:NHK

徳川軍に従軍した桑名藩の記録には銃に弾をこめていなかったという驚くべき事実の記述が。

準備をせずに戦に臨むことなんてあり得ないこと。

大軍で京に攻めのぼれば、薩摩は恐れをなして道を開けると考え、完全に油断していたのです。

最大の誤算、薩摩側に錦の御旗!朝敵に!!

そして、ついに1月3日17時、鳥羽伏見の戦いが勃発します。

しかし、絵巻には壊滅する徳川軍の様子が描かれています。

兵たちの油断が勝てるはずだった戦いの歯車を狂わせたのです。

さらに、ここで最大の誤算が生じます。

敵陣に錦の御旗

出典:NHK

天皇の軍隊である証、錦の御旗が薩摩の軍に。

錦の御旗

出典:NHK

実は薩摩は徳川との戦いを想定し、事前に何本もの錦の御旗を用意していました。

徳川方についていた諸藩は動揺し、鳥取藩、淀藩、津藩と薩摩に寝返る者が続出します。

錦の御旗の登場で慶喜はどん底に突き落とされたのです。

元々新政府で自分は良いポジションに就けるだろう、就けたら朝廷のためにという思惑があったのですが、朝敵になったことは一番突き付けられたくない事実でした。

慶喜は大阪城を脱出。戦う兵たちを見捨て、江戸に戻ってしまったのです。

総大将を失った徳川軍は総崩れとなります。

徳川の大敗

出典:NHK

鳥羽伏見の戦いは徳川の大敗で幕を閉じました。

こうして、慶喜は朝敵の汚名を着せられ歴史の表舞台から姿を消すことになったのです。

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最後に

聡明な慶喜は貧乏くじを引きたくないという思いからか、4か月半粘り、将軍にならないようにしていました。

徳川宗家を引き継ぐ慶喜

出典:NHK

ですので、家茂の死1ヶ月後の慶応2年8月20日宗では徳川宗家の相続のみ承諾します。が、とうとうならざるを得なくなり、12月5日、征夷大将軍に就任したのでした。

慶喜は将軍になっても英知と知略で徳川家を守ろうとしますが、岩倉具視・薩長の討幕派の謀略の前に屈してしまうことになります。

王政復古の大号令から鳥羽伏見の戦いまでの間で、慶喜は貧乏くじを引いたことを思い出し、どうしようもないことを悟ったのでしょう。

大政奉還が上手く成し遂げ、今後もどうにかできるかもしれないという希望があったのかもしれませんが。。。

この大政奉還を成し遂げた慶喜の裏工作については徳川慶喜は大政奉還をなぜ急いて行ったのか?また、反対する藩をどうやって説得したのか⁉の記事をアップしてあります。よろしければ。

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1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK