元総理大臣細川護熙(細川家18代目当主)、細川藤孝・忠興は光秀の変わった様子を察知してたと。秀吉にはそういう情報が入ってた⁉

細川護熙

2020年1月1日にNHKで放送された「本能寺の変サミット2020」の後半にスペシャルオブザーバーとして元総理大臣細川護熙(もりひろ)さんが肥後細川家の第18代当主として出演。

光秀が起こした本能寺の変(1582年6月2日未明)後、毛利と和睦交渉をし、最有力説で6月6日に備中高松城を出発、13日に山崎着と考えれば8日間で約230kmを移動した秀吉の中国大返しで、細川藤孝・忠興親子が明智側に付いていたら、秀吉が天下統一することはできなかったかもしれない。

細川藤孝・忠興親子

出典:NHK

また、番組内で鋭の研究者7名のみなさんは、秀吉が、信長が光秀に討たれことを疑わず、すぐに信じたことはなんらかの情報を事前につかんでいたからではではないかということも話していました。

その後に、細川藤孝・忠興親子が残した本能寺の変の前の光秀の様子を細川護熙さんが言葉にしていたのです。(当然、細川家の資料を元にした話)

秀吉が賤ヶ岳の戦いで弟の秀永にの書状の内容が非常に細かく、書状戦略長けていることを考えると、秀吉は細川藤孝とのなにかしらのやり取りで光秀が謀反起こすかもしれないことを想定していたかもしれません。
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光秀の様子がおかしかったという記録を細川家18代目当主元総理大臣細川護熙さんが

秀吉陰謀説というより

本能寺の変から、わずか11日後の1582年6月13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に敗れました。

本能寺の変で最も得をしたのは秀吉。なぜ、秀吉はこんなにも早く変の情報を知り、移動できたのか?

秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのだろうか?

前もって知っていたのではないか?

普通なら織田家の誰かと光秀を包囲網をとりながら攻めるような作戦をとるはずです(光秀もそう来ると考えていたはず)が、秀吉は単独で光秀を討ちに返ってきたのです。

秀吉は元々天下をとるつもりで戻ってきたのでは。

ということなどで秀吉陰謀説があります。

秀吉がなぜ、備中高松城で信長が死んだということをすぐ信じたのか?ということに関して大きな疑問が残っており、気鋭の研究者7名もその理由は今のところわかってないみたいです。

秀吉は、光秀があぶないことを考えてるかもしれないという情報は前々から入ってきていて、四国攻め決定や中国攻め中の秀吉への光秀援軍を信長が決めたことと、少ない手勢で信長が本能寺に泊まったこともあり、長谷川宗仁に見張らせていたのではないかと思ってしまいます。

だから、兵糧やたいまつなどを準備できていて、中国大返しができたのではないかと。

あぶないことを考えてるかもの情報の元は、もしかして、細川元首相の次の話が関係してる?

光秀が本能寺の変より前に腹を括っていたことを察知していた細川藤孝・忠興親子

信長の仲介で光秀の娘たま(細川ガラシャ)が藤孝の息子忠興に婿入りしているため、両者は親戚の関係でした。

さらに、細川藤孝は光秀の与力大名でしたので、当然、信長を討った後、味方に付くと光秀は思っていたのです。

明智家と細川家の関係

出典:NHK

しかし…

細川藤孝・忠興親子が本能寺の変を知ったのは変が起きてからですが、その前に藤孝はどうも光秀の様子がおかしいと感づいていて「あぶないことは(?)やめておいた方がいい」と忠告をしたと。また、忠興は光秀がいかにも話したそうだった。その時に光秀は涙ぐんでいたと、

細川元首相。

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血判状、書状から見えてくる本当の秀吉像

羽柴秀吉血判起請文

細川家に400年以上大切に保管されていた今に残る秀吉の唯一の血判状です。

秀吉の細川家への最大級の感謝が感じられる。

「(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)細川家の行動は比類なき頼もしさであった」「これからはごく親しい関係を結び、表裏なく公私ともぬかりなく協力していこう」

しかも、書かれていることが真実であることを神仏に誓うため、熊野神社の護符の裏紙を使い、「この誓いを破ったら日本中の神の罰をうけてもいい」とも。

秀吉が鳥取に攻めている時に信長から秀吉に細かい攻め方の指示が書かれている書状が細川家に残されているいうこと。秀吉と藤孝はかなりの関係ができたいたのでは。

細川家の行動の中には、もしかして事前に光秀が何か起こしそうということを知らせていたことも含まれるのでは。

賤ヶ岳の戦いの際の羽柴秀長宛、羽柴秀吉書状

自分たちがこんなに守っていても負けるパターンに対する対策が非常によく出来過ぎている優れた書状ということであると、柴田勝家軍を目の前にする弟秀長への書状と「英雄たちの選択」での磯田先生。

秀吉は書状でのやり取りで状況を掴んだり、正確に伝えたりすることに非常に重要視していて、当然長けていたということですよね。
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最後に

たしかに、「英雄たちの選択」にあった賤ヶ岳の戦いでの秀永への書状の内容の細かさは、逆に秀吉が書状を重んじていたことがわかります。そして、情報の収集力とその細かい情報から真実を読み取る力がすごかったと考えられます。

番組で言ってましたが秀吉が信長が討たれたことを知って泣き叫んだということは、自分で書いた書物にのこっているそうで、大好きだった大河ドラマ「軍師官兵衛」のシーンが、ちょっと嘘っぽく感じてしまいました。

以下、そのシーン

岡田准一さん演じる黒田官兵衛が京の長谷川宗仁の急使辰蔵が持ってきた書状(本能寺の変)を秀吉に渡します。官兵衛が一言「殿!一刻を争います。お気を確かに!わかりますか?殿のご運が開けたのですぞ。ご運が開けました」と。

驚く秀吉に、官兵衛は「今はなき竹中半兵衛様の思いをお忘れか?半兵衛様は殿が天下に名乗りを上げるのを待ち望み、それがしが軍師として支えるよう言い残し逝かれました。今こそ、その時にございます。上様の死を毛利に悟られることなく、すぐさま京に引き返し、誰よりも早く謀反人・明智光秀を討つのです。それこそが亡き上様のため!そして天下のためにございます」と。

秀吉は「官兵衛、わかった。してどうすればよい?」と聞くと、官兵衛は「すべてこの官兵衛にお任せ下さい」と答えます。秀吉は「官兵衛、わかった」と泣き出しました。

秀吉は光秀が謀反を起こす可能性がある状態も把握し、四国攻め、中国攻めの援軍、信長と信忠が京都に少ない手勢で居ることを考えて、諸々事前に準備していたとしか考えられなくなりました。
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1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK