明智光秀の本能寺の変、山崎の戦いを経て最期に至るまでの動きに迫る!新史料が今年、大津石山寺で発見!

明智藪

2020年10月19日(月)、10月11日にKBS京都で放送された「京都浪漫 悠久の物語」の”第60回 明智光秀 最期の17日間~コロナ禍で発見された知られざる戦の記録~”がBS11で放送。

この春、滋賀県大津市にある石山寺法輪院の蔵で本能寺の変直後の明智光秀の動きについ書かれた古文書の新発見がありました。

その知られざる戦いの記録であるこの史料から読み解くと、光秀は計画的に本能寺の変を起こしたのではないと考えられるのです。

山岡影以 舎系図

出典:KBS京都

その史料とは、山岡影以(かげこれ)舎系図(いえのけいず)は瀬田城主で石山寺の僧侶も務めた山岡家の由緒をまとめたもの。

新型コロナウィルスの影響で閉門していた時期に蔵の整理をしていて見つけたのです。

信長を討って天下人となるはずだった光秀の思惑がことごとく進まないことで、最期を迎えることとなった悲運が紹介されてました。

<Sponserd Link>



明智光秀は信長の首をとれなかったことと、すぐに安土城に入れず…

瀬田橋をおとされた上、新史料では舟戦さで敗北!計画に狂いが

本能寺で信長を討った明智軍は、その日のうちに安土城を目指します。しかし、信長に仕える瀬田城主山岡景隆に瀬田橋をおとされたため、仕方なく光秀の居城である大津の坂本城に入りました。

瀬田唐橋

出典:KBS京都

そこまでは「信長公記」にもあるくだりで、よく知られています。

本能寺の変で先陣を切った光秀の重心、明智弥平次が瀬田橋の攻防で舟戦さを挑んだのだが、景隆が迎え撃って討ち取ったと記されていたのです。

今回の発見で、光秀は舟戦さをしてまでも安土城に向かいたかったということがよくわかります。

安土城にこだわった理由は信長の莫大な財産を一刻も早く抑えたかったのです。

光秀はそれを使って朝廷や各地の武将達を味方に付けるつもりだったとも言われてますが、瀬田橋をおとされてことで計画に狂いが生じました。

<Sponserd Link>



天正10年6月3日、各地の武将に協力を要請

仮設の橋が架かるまで坂本城で2日の時を過ごした光秀は、その間、各地の武将に手紙を書き協力を要請します。

坂本城址

出典:KBS京都

しかし、なかなか上手くいかなかったのです。

その理由は信長の首をあげられなかったことや安土城に入るのが遅れたことで多くの武将がしばらく様子見に入ったと言われています。

もう一つ、想定外だったのが備中高松城を攻めていた羽柴秀吉の動きでした。

<Sponserd Link>



天正10年6月4日 近江全域を平定し、6月5日安土城に入る

光秀は信長方の拠点に兵を出し、6月4日には近江全域を平定。

明智光秀像

出典:KBS京都

瀬田橋の仮設工事が終了したので、6月5日に安土城に入ります。

その後、安土城に3日間滞在しますが、ここでも時間かけようが信長の家臣の中で最大のライバルだった羽柴秀吉と比べると対照的でした。

<Sponserd Link>



天正10年6月6日 秀吉軍「中国以大返し」開始

秀吉は6月4日に主君の死を知ります。そして、その直後からすぐさま行動を起こしました。

6月6日、毛利側との和睦を成立させるや否や、京都に向けて進軍を開始。

中国大返し

出典:KBS京都

世に言う「中国大返し」です。

<Sponserd Link>



天正10年6月7日 安土城で朝廷の勅使と面会、8日 坂本上に戻る、9日 京都に入り、朝廷に銀子500枚を献金

その頃光秀は安土城で公家への工作を進め、待ちわびていた朝廷の勅使との面会を果たします。

朝廷に献金

出典:KBS京都

朝廷から、京都と近江の治安維持を託されたことを錦の御旗として掲げ、坂本城に戻って出陣の準備を整えると、9日 京都に入り、朝廷に銀子500枚を献金 。

光秀が秀吉の「中国大返し」に気付いたのはその後(6月10日)のことでした。

一方秀吉は、一夜にして早くも自城の姫路城まで戻り小休止。城の金品を全て部下に与えて気勢を上げ、6月9日には姫路城を出立し進軍を開始しました。

それから3日、両軍は多数派工作を進めながら、吸い寄せられるように天王山の南、3つの川が合流する山崎の地で対峙することとなります。

<Sponserd Link>



天正10年6月13日 山崎の戦い

本能寺の変から11日後、明智光秀と羽柴秀吉の覇権をかけた天王山、山崎の戦いが始まりました。

勝敗を分けたのは、ここに至るまでの光秀と秀吉、それぞれの動きの違いでした。

光秀は朝廷工作に勤しむが、かなり日数をかけてしまって、思ったより畿内を制圧するのに時間がかかってしまった上、予測できなかった秀吉の電光石火の「中国大返し」。

天王山と男山

出典:KBS京都

光秀は秀吉を迎え撃てる場所を模索。そこで、天王山と男山に挟まれた狭い場所、さらに淀川が流れおり、一番狭い幅が200mぐらいで、守りやすい場所として、山崎の地に。

秀吉の軍勢は約4万、一方光秀の軍勢は1万6千で数の上では勝算がなかったのですが、この場所ならもしかしてということで。

山崎の戦い布陣

出典:KBS京都

ところが、天王山を抑えたのは秀吉でした。羽柴軍は前日にいち早く天王山の中腹に本陣を置き、街道に沿って縦長の陣形を敷きました。一方光秀は天王山のふもとを進んでくる羽柴軍の備え円明寺川をはさんで布陣します。

川を越えようとする秀吉軍を個別に撃破する作戦。

戦いの火ぶたが切られた

出典:KBS京都

午後4時、明智軍の斎藤隊・伊勢隊が羽柴軍の中央を攻撃し戦いの火ぶたが切られました。

羽柴軍が次第に優勢に

出典:KBS京都

数の上では不利だった明智軍も互角以上の戦いを繰り広げましたが、豊富な予備隊を次々と投入してくる羽柴軍が次第に優勢に。

側面からの攻撃を受ける

出典:KBS京都

午後6時頃、羽柴軍右翼が明智軍を突破。側面からの攻撃を許すことになった明智軍は総崩れとなっていきます。

坂本城までの途中で

出典:KBS京都

光秀は退却を決意。ひとまず勝龍寺城に入った後、夜に紛れて少数の家臣だけで坂本城を目指します。しかし、その途中の小栗栖(京都市伏見区)で道のりを絶たれることになります。

<Sponserd Link>



最後に、光秀の最期

小栗栖の竹をかき分けながらけもの道を進む光秀の脇腹を突然一本の竹槍がえぐりました。

光秀はそのまま落馬、「もはやこれまで」と家臣に介錯を頼み、自ら命を絶ったと伝わってます。

明智光秀首塚

出典:KBS京都

京都市東山、知恩院の北を流れる疎水沿いに光秀のものとされる首塚があります。

明智光秀首塚跡

出典:KBS京都

家臣の手で隠された光秀の首は、その後掘り起こされ、本能寺の焼き後にさらされた後、時代を経てこの地に葬られたと言います。

こうなると、光秀の妻熙子(ひろこ)はどうなったのだろう?と思います。

大津市の聖衆(しょうじゅ)来迎寺(らいこうじ)が所蔵する仏画の裏面に、戦国武将・明智光秀の妻熙子(ひろこ)の戒名が見つかっており、本能寺の変より前に亡くなっていた可能性が高くなったということです。

引用:2020年8月7日朝日新聞デジタル

だから、光秀は本能寺の変みたいな思い切ったことができたのでしょうね。きっと。

<Sponserd Link>


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK