なぜ信長は本能寺にいたのか?安心できる定宿の茶会で50億円以上の茶器を披露したかったからだけでは?

光秀の兜

2020年10月19日(月)、10月11日にKBS京都で放送された「京都浪漫 悠久の物語」の”第60回 明智光秀 最期の17日間~コロナ禍で発見された知られざる戦の記録~”がBS11で放送されていました。

今年の夏、大津の石山寺で明智軍の知られざる戦を記した史料が見つかった。

それは謎多き戦国武将、明智光秀の性格をうかがい知る事ができる古文書だった。

今回は様々な資料を元に、光秀が亀山城に入ってから落ち武者狩りで命を落とすまでの最期の17日間に迫る。

引用:KBS京都「京都浪漫」

その知られざる戦の記録であるこの史料から読み解くと、光秀は計画的に本能寺の変を起こしたのではないと考えられるのです。その史料の内容は?

その前に、今回の記事では本能寺の変以前の光秀と信長の動向について、そして、なぜ信長は本能寺に少数の手勢で入ったのか?に迫ってました。

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本能寺の変直前の光秀と信長の動向

天正10年5月26日、坂本城を出陣し、丹波亀山城に入る

信憑性が高いと言われる史料「信長公記」によると光秀率いる明智軍が亀山城に入ったのは天正10年5月26日。

備中岡山の高松城で毛利の軍勢と対峙していた羽柴秀吉から援軍の要請があり、自ら出陣することを決めた織田信長は、先発隊として明智軍を出陣し、秀吉に加勢するよう命じました。

光秀、亀山城に入る

出典:KBS京都

これに応じる形で、光秀は坂本城で準備の後、亀山城に進軍したのです。

しかし、そこからすぐに備中には向かいませんでした。

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天正10年5月27日、愛宕神社に参詣

愛宕神社は”火の用心”のほかに、勝軍地蔵があるので”戦勝祈願”というご利益もあるのです。

愛宕山

出典:KBS京都

光秀は戦勝祈願で天正10年5月27日に愛宕山に登り、愛宕神社に参詣。

3度、4度とおみくじを引いたが、残念ながら”凶”が続いたということ。

天正10年5月28日、愛宕山で蓮歌会を開催

愛宕山に一泊した光秀は、境内にあった威徳院で京都の公家衆も集め、盛大に蓮歌会を催しました。

その時に光秀が詠んだとされる有名な句が

“ときは今 あめが下しる 五月かな”

この句の”とき”は時間のことですが、光秀の一族は”土岐”、”あめが下しる”は”天下”と書きますので、解釈によっては光秀が(信長を本能寺で討ち取り、)天下を取るということになりますが、こういった深い意味があれば軽率にその場で詠んでしまうか?という考えもあります。

が、また詠んだ日では信長が京都に上洛してくる時期と少しずれおり、光秀がそのことを分かっていたかという疑問も残ります。

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天正10年5月29日、織田信長が本能寺に入る

信長は思いついたかのように安土城を出発し、定宿の本能寺に入りました。

ところで、信長はなぜ、本能寺を定宿にしていたのか?

当時の本能寺の場所

出典:KBS京都

当時の本能寺は現在よりも西側、堀川通の近くにあり広大な敷地を誇っていました。周囲を囲む堀も深く、城砦のような構えになっていたのも理由のひとつですが、別の理由があったと言われています。

その罰の理由は、本能寺の種子島にまで末寺があり、種子島家が法華経の熱心な信者だったので、信長は鉄砲を入手するのに本能寺を使っていたと言われています。

天正10年6月1日、信長が本能寺で茶会を催す

信長は公家や僧侶、40人を本能寺に招き、茶会を催しました。

長年掛けて収集した自慢の茶器38点、今の金額にして総額50億円以上の名品をわざわざ安土から運んでます。

織田信長

出典:KBS京都

茶会で茶器を見せつけた信長は、その日、上機嫌で眠りについたと言います。

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天正10年6月2日、本能寺の変

6月2日午前4時、備中高松城に向かうはずの明智光秀の1万3千の大群が本能寺を取り囲んでいました。

前日の夜、光秀の軍勢は亀山城から出発し、備中高松城に向かわずに、桂川の手前で光秀は「わが敵は本能寺にあり」と全軍に激し本能寺へ。

信長、起きぬけで、しばらくは誰が謀反を起こしたのかわからなかったくらい不意を突かれたのです。

しばらくして、桔梗の旗印が見え、光秀が謀反を起こしたことがわかったのです。

信長は本能寺に火を放ちます。

本能寺に鉄砲のための多くの火薬があることも、わかっていた上のことですので、信長は覚悟を決めてたと考えられます。

本能寺の大賓殿宝物館に保管されている

信長が最後に持っていたと考えられる刀

出典:KBS京都

西洋風の太刀”安綱”の

信長の髪の毛、血の後では?

出典:KBS京都

切羽のところに、髪の毛と血の痕があるので、信長は最後にこの太刀を持っていたと考えられます。

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最後に

「麒麟が来る」でもあったのですが、京都に入る時に多くの兵を引き連れて入る時は戦目的なのです。

茶会などの催しの場合、多くの兵を引き連れないのです。

そして、本能寺は定宿だから安心して信用でき、現価値50億円以上の大事な38点の茶器を持ち入れることができたのではないかと。

本能寺の変後の光秀の動向と新情報は近日記事をアップいたします。

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1970年長崎県五島生まれ 現在、家族は妻、息子の2人 品川区在住、品川区勤務 好きな作家:池井戸潤、伊坂幸太郎、真山仁 好きなドラマ:救命病棟24時、医龍 好きな映画:グローリー 好きな女優:石田ゆり子、イングリッド・バーグマン 好きなスニーカーメーカー:PATRICK