コロナ禍による撮影中断のため、2020年8月30日(日)から放送再開した「麒麟がくる」では本郷奏多(かなた)さん演じる近衛前久(さきひさ)が初登場。
今後、色んなところでキーマンになるだろうと思わせる内容でした。

出典:NHK
本郷さん、大河ドラマ初出演でしたが、色白なところ、痩せた感じ、目つきなど公家役のイメージにどストライクで、演技も気品に満ちていおり上品という評判です。
しかし、関白近衛前久は公家でありながらも行動派。自ら武家たちと行動を共に良くしており、織田信長とも仲が良かったという。
一方で本能寺の変の黒幕(?)として名前が上がるほど明智光秀と親密な関係もあり、徳川家康、豊臣秀吉、島津家などとも上手く付き合っていたということ。
近衛前久は実際は?
そして、本郷奏多さん演じるドラマ「麒麟がくる」の近衛前久とはどう描かれるのかをまとめてみました。
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目次
近衛前久は各地で和睦調停し、戦国時代を終焉させた裏の立役者
2020年8月30日放送「麒麟がくる」までの近衛前久
近衛前久、関白として荒れた世をどうにかしたい!
近衛前久は藤原道長の流れを汲む近衛稙家の長男として1536年生まれ、足利義輝(向井理さん)、義昭(滝藤賢一さん)の従兄弟でもある。
19歳の若さで関白になり、藤氏長者に就任しました。
朝廷に実権が無い事を憂いており、公家であるにもかかわらず、若いうちから戦が続いて荒れた京都を出て、武家との交流を広め、世を平定にしたいという志向だったので、その後行動に移していきます。
上杉謙信と血書の起請文を結ぶほどの熱意
関東では武田氏や北条氏が領土拡大のための侵略繰り返しており、攻められた武士たちが越後の長尾景虎に助けを求める事が多かったのです。

出典:NHK
そこで、景虎は将軍足利義輝に後押しをもらうために上洛、そこで前久は景虎について越後に行こうとし、血書の起請文を交わします。
この時は朝廷行事も多々残すことになるので、義輝に諌められ、翌年の1560年に謙信の元、越後に赴きます。
1561年にはそのまま三国峠を越え、上野や下野に赴き、上杉謙信の関東平定を手助けをします。
そして、北条氏を制圧。謙信は越後に戻りますが、前久は2年間も古河城に滞在し、北条氏を牽制しつつ謙信に情勢を報告するなどし続けますが、武田氏と北条氏の三つ巴はなかなか崩れず、謙信の関東平定はなかなか難しいと考えたのか、1562年、前久は謙信の承諾がないまま京へ帰ってしまうのです。
謙信が関東を平定したら、前久は謙信と共に上洛し、室町幕府を立て直す計画があったのではないかという説もあります。
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「麒麟がくる」での本郷奏多さん演じる近衛前久
「麒麟がくる」の前久にはオリジナルキャラクター伊呂波太夫(尾野真千子さん)の弟みたいな存在ということ。
ホッとでき、本音を話せる存在がいるというところがある近衛前久がいるので、わたしたちも公家だけど身近に感じられるようになってますよね。
若き関白。その類いまれなる行動力で、公家でありながら自ら政治に介入する、変わり種の貴族。
出典:NHK
近衛家に拾われた過去をもつ伊呂波太夫と、幼少期、きょうだいのように育ち、何かと行動を共にする。
引用:NHK_PR

出典:NHK
早速、伊呂波太夫が駒に「関白だけど、寝しょんべん垂れで、おしめも替えた弟のよう存在」と前久のことを紹介していたシーンが今週放送の「麒麟がくる」でありましたね。
本郷奏多さんの近衛前久を演じるにあたってのコメントにも伊呂波太夫との絡みについて言及したがありましたね。
公家の中でも関白というとても偉いポジションにいる人物を演じさせていただきます。若いけど高い地位にいるので、弱々しく見えないように、威厳が感じられるように演じたいと思います。
前久は、いろいろな人に自ら会いに行く、公家なのにとてもアクティブな人物です。史実では信長とも親交があったそうです。ということは、多くの役者さんとお芝居ができるということなので、今からワクワクしています。
また、実在の人物である前久と、オリジナルのキャラクターである伊呂波太夫との関係性もおもしろいと思っています。公家として仕事をするときはキリッとした表情で、伊呂波太夫との絡みでは少し子どもっぽい面を出して、二面性というかメリハリをつけて演じていきたいです。
引用:NHK_PR
今週の放送でも義輝暗殺が企てられてる話がありましたが、

出典:NHK
1565年5月、永禄の変、将軍の義輝が、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)

出典:NHK
その後、1568年まで将軍不在、14代将軍になった義栄が約半年で病死した後、義昭が15代将軍になった際、二条晴良(小藪千豊さん)からも前久と関与していたのではと疑われ、罪を追求されることになってしまうそうです。
追放された前久は、丹波国の赤井直正を頼って黒井城に。その後、本願寺・顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移り関白を解任され、二条晴良が関白に就くこととなります。
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今後の近衛前久は色んなところでキーマンに
織田信長と親睦
しかし、近衛前久はもともと織田信長には敵意がなかったこともあり、1573年に足利義昭が追放されると、1575年には織田信長により帰洛を許されます。

出典:NHK
1575年9月から、信長の要請を受けて九州に下向すると、一年半かけて島津氏と相良氏を和睦させ、伊東氏と大友氏の戦も停止させた。
1577年、京都に戻ると、今度は織田信長と本願寺顕如との調停も行い、1580年、石山本願寺の降伏にこぎつけました。
信長は感謝し「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」という書状を送ってます。
また、鷹狩りという共通の趣味もあったことから、織田信長との親交は深まり、1582年3月の甲斐の甲州征伐にも、信長に同行し木曽路を通って甲府まで行ったこともあるくらいです。
1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変にて織田信長が亡くなります。
家康とはもともと交際があった
松平氏の三河の安城は近衛家の荘園なので、近衛家と松平氏との間に交際がありました。

出典:NHK
そして、前久は最後まで家康と上手く関係を保ったのです。
松平から徳川へ改姓に
1567年、松平家康が徳川姓を朝廷から許されて、徳川家康と名乗り、従五位下三河守に叙任されました。
改姓できたから、後に征夷大将軍になれたのです。
実はこの時、朝廷が認めるきっかけとなったのは、家康から周旋を依頼された近衛前久と吉田兼右が見つけたある旧記だったといいます。
それによると徳川氏は源氏であり、二系統あるうちの惣領家には、藤原氏になった先例があるというものでした。
つまり家康の改姓と叙任を朝廷は、源氏であるからというより、藤原氏になった先例があるからという理由で認めていた可能性が高いのです。
タイミングよく見つかった旧記が果たして本物かどうかはさておき、面白いことに家康は以後、源氏だけでなく藤原氏も称しました。
本来、源氏の名門を称するための改姓であったはずであり、後年、征夷大将軍に就任する際も源氏であることがものをいうわけですが、天正年間には「三位中将藤原家康」などという署名もしています。
引用:歴史街道
関ケ原の戦いで
関ヶ原の戦い後には、敗軍となった島津家の落人を保護したうえで、家康との和平交渉に奔走し、同6年8月家康から島津領安堵の確約を取り付けることもしたのは前久である。
豊臣秀吉を猶子に
実は、豊臣秀吉は近衛前久の猶子になり、関白という公家の最高位になることで、天下を手中に収めます。
形式上とはいえ、前久は天下人の父という立場になりました。
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最後に
本能寺の変の前に信長は、一度元親に「四国を平定してもよい」としていたが、反故にします。
前久は、光秀とも親しかったと言われていますが、一緒に長宗我部氏の擁護をしていたことが、前久自身の書状から判明しています。
ということで、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」のキーマンは、実際戦国の世で坂本龍馬のような動きをしまくっていた前久になると思っています。
そうなると、最後まで本郷奏多さんの演じる近衛前久から目が離せませんね。
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