コロナ禍による撮影中断のため、2020年8月30日(日)から放送再開した「麒麟がくる」では滝藤賢一さん演じる足利義昭が大和の国で初登場。

出典:NHK
今週の放送では興福寺一乗院にて覚慶(かくけい)というお坊様の役で、門脇麦さん演じる駒と出会いました。
義昭は13代将軍足利義輝の実弟になります。
ということで、足利将軍家の家督相続者ではないので、6歳の時に関白近衛尚通の猶子となって、慣例により仏門に入っていたのです。
尚通の猶子ということは、近衛前久はいとこでもありおじさんということになります。
ところで、足利義昭は一般的に信長の力で将軍になり、5年ほどでその信長より京都追放されて、室町幕府が滅亡。と、力を持たない、あまり能力がなかった将軍のイメージですが、「麒麟がくる」で滝藤賢一さんが演じるということは有能で、主人公光秀に相当影響を与える人物だというのが伺えます。
実際そうなんですが。

出典:NHK
そして、これからのドラマ「麒麟がくる」の明智光秀(長谷川博己さん)、織田信長(染谷将太さん)と足利義昭の関係性をイメージしやすいように、実際、現在通説となっている足利義昭についてまとめてみました。
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目次
足利義昭は包囲網で信長を追い込んだが、運がなかったのか?あったのか?
永禄の変にて全てが一変する
足利義昭は1537年11月13日に生まれます。父は室町幕府12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。
次男であった為、足利将軍家の家督相続者以外の子として、6歳の時、関白近衛稙家の猶子となり、慣例により仏門(興福寺一乗院)に入って”覚慶”(かくけい)と名乗ることになります。(後に興福寺一乗院門跡権少僧都に就任)

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本来であれば、覚慶はこのまま高僧として生涯を全うするはずであったが、1565年5月の永禄の変で、第13代将軍の兄・足利義輝と母・慶寿院が、松永久秀や三好三人衆らによって暗殺され、弟の鹿苑院院主・周暠も殺害されたのです。
その時、覚慶は、助けに向かった細川藤孝たちより先に松永久秀らが、興福寺に入りそのまま幽閉されます。
7月、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らによって救出。

出典:NHK
覚慶(義昭)(29歳)は室町幕府の権力を取り戻そう行動を開始します。
正統な血筋による将軍家を再興するため、1566年2月、還俗し”足利義秋”と名乗ります。
そして、和田惟政と仁木義政の斡旋があり、甲賀から都にほど近い野洲郡矢島村で二重の水堀で囲んだ場所を御所とします。”矢島御所”と。
矢島御所から三管領家の畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱らに協力要請を行い、1566年4月21日には、将軍になる者が直前に就く官職である従五位下・左馬頭に叙位に。
そこで、三好三人衆の三好長逸が3,000を率いて矢島御所を襲撃してきたのですが、撃退。
1566年8月。1566年3月の細川藤孝らは織田家と斎藤家の和睦を働きかけ、織田信長の上洛が8月に決まっていたのだが、松永久秀や三好らは、斎藤義龍に働きかけ織田信長の上洛を防止。さらに、矢島御所がある近江の六角義治が三好三人衆と密かに内通したという情報が入ったので、妹の婿である武田義統を頼り、若狭へ。
しかし、武田義統は国内の内乱で、軍勢を出して義秋(義昭)の上洛を助けるだけの余裕はなく、義秋(義昭)は9月に越前の朝倉義景を頼って一乗谷城下の安養寺へ移ります。
義秋(義昭)のもとにはかつての幕府重臣が帰参したが、上杉謙信・武田信玄らに上洛要請しても、周辺国との対立で遠方への出兵は難しく、朝倉義景も積極的に上洛を支援する事はできなかったのです。
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足利義昭と明智光秀のつながりができるきっかけはこの頃だが、「麒麟がくる」では?
越前にいる義昭を三好三人衆から守るために戦が繰り広げられていたこの頃(1566年10月頃)、『米田家文書』の紙背文書に滋賀県の琵琶湖の北西部に位置していた田中城に明智十兵衛尉(光秀)がしてケガを負った兵の治療にあたっており、医術を伝えていたという内容が記されています。(2014年に発見)
この記録は「鍼薬方」という医学に関する内容の奥書で、幕臣である細川藤孝の家臣米田貞能が書いたもので、足利義昭と明智光秀との接点が生まれたのではということ。

出典:NHK
この文書に沿って、今週の「麒麟がくる」では長谷川博己さん演じる十兵衛が書物を読み漁ってるのですが、

出典:NHK
「吾妻鏡」なんです。
医学書ではないということは、「麒麟がくる」では明智光秀が越前で医者をしている設定ではなさそうですね。

出典:NHK
確かに「麒麟がくる」では十兵衛(光秀)は既に細川藤孝ともつながってますので、明智光秀と足利義昭は別の形で出会うことになりそうですね。
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足利義昭の信長のその後
1568年2月、松永久秀らに擁立された足利義栄が第14代将軍に就任します。
一方、義秋は1568年4月に元服し、名を”義昭”と改めます。
7月になると朝倉家を出、光秀のはからいで足利義昭は美濃・立正寺に、信長は9月に義昭と上洛し、義昭は室町幕府15代将軍になります。32歳の時です。
義昭は信長のことを尊敬しましたが、信長は義昭の家臣となる副将軍や管領就任を拒絶。義昭の行動を制限して独自に畿内支配を進めた為、義昭は信長の傀儡にすぎないことにすぐに気づきます。

出典:NHK
その後、義昭は第一次信長包囲網(越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、南近江の六角義賢、比叡山延暦寺、石山本願寺、伊勢長島の一向一揆、三好三人衆)、第二次信長包囲網(一次に加え甲斐の武田信玄、相模の北条氏政、丹波の内藤如安、近江の甲賀衆、伊賀の伊賀衆、さらにもともとは織田方だった河内の三好義継、大和の松永久秀、そして将軍である義昭)で信長を窮地に追い込みます。

出典:NHK
三方ヶ原の戦いで武田信玄が徳川家康を敗ると、義昭の立場は高まり、信長包囲網により信長は窮地に陥った為、信長は1573年1月には子を人質に差し出して、義昭と和睦を図ります。しかし、義昭は拒否し、1573年3月、正式に信長と絶縁します。

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しかし、一転、4月12日、信玄が西上途中で死去し、武田勢が甲斐に退却すると、義昭と信長の立場は逆転してしまいます。幕臣の細川藤孝や荒木村重らが義昭を見限り、織田信長に臣従します。
しかし、義昭は二条城にて信長への抵抗を続けた為、一度は正親町天皇からの勅命講和となったが、一方的に義昭は講和を破棄して蜂起し、槇島城に籠城しましたが、信長は7万の大軍で槇島城を包囲して攻撃したため、7月に義昭は降伏します。
義昭は京を追放された為、一般的には室町幕府の滅亡とされています。

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その後、朝倉氏、浅井氏も滅亡。義昭は頼れる大名家の多くを一気に失います。
1575年には義昭でなく信長が右近衛大将に叙位されます。
1576年、義昭は毛利輝元・吉川元春を頼って、備後国の鞆(とも)に移り、義昭は鞆幕府として信長追討を目指して全国の大名に御内書を発送しますが上杉謙信も1578年3月に死去、1580年には石山本願寺・本願寺顕如も信長に降伏となり、将軍への返り咲きは諦めかけていたかもしれません。

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が、1582年6月2日に信長と信長の長男信忠が、本能寺で明智光秀に討たれます。
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最後に
この後、秀吉が光秀を山崎の戦いで破り、1885年関白になります。その後天下統一を。
一方、1588年、義昭は秀吉に従って参内し、将軍職を辞します。そして、一国の大名として秀吉に厚遇を受けて60歳で亡くなります。
財力も兵力もない足利義昭が、室町幕府を復活させたいという気落ちで包囲網を画策し、信長を窮地に追い込んだのですから、超すごい人だったのです。
来週以降の「麒麟がくる」、織田信長、明智光秀、足利義昭の関係性も見ものですね。
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